私はホモ・ルーデンス

京都に住む大学生です。森羅万象について、自分の頭で考えたことをひたすら綴っています。論理と感情の狭間で生きてます。気軽に読んでみてください。

〜人生楽しんだもん勝ちという言説へのささやかな抵抗〜

〜人生楽しんだもん勝ちという言説へのささやかな抵抗〜

 

 

「人生楽しんだもん勝ち」というテーゼ。誰もが一度は目にしたことはあるのではないだろうか?

 

 

Facebookでは【人生楽しんだもん勝ち】というタイトルの長々しい文章が大勢でうぇーい的な写真を添えて綴られる。Instagramでは「#人生楽しんだもん勝ち」となって現れ、Twitterではプロフィール欄に登場する。

 

 

私は、「人生楽しんだもん勝ち」という一見キラキラした言説に並々ならぬ違和感を覚えるのである。

 

 

それは圧迫感的なものであり、同情心でもあり、虚しさでもある。

 

 

では、その違和感とはなんなのか?今回の記事の趣旨は単純だ。その違和感の正体を暴くことである。違和感を感じていないし、むしろその言葉や態度が好きだという人は何言ってんだこいつと読み流してくれて良い。もちろん建設的な批判は歓迎する。

 

 

早速だが、私はこの5つの観点から「人生楽しんだもん勝ち」という言説への批判を展開しつつ、その違和感の本質を浮き彫りにしていく。

 

①客体からの評価

②定義問題

③言説の論理的妥当性(正当性)

④表出の意図

⑤動機の意図

 

とは言っても、なんのことか分からないだろう。

 

一つずつ説明していこう。

 

①客体からの評価

これは、この言葉を見たり、聞いたりした受け手側がどう思うかということだ。

一言。ダサい。これは私がなぜ違和感を感じるのかの検証なので皆さんはどうかわからない。でも、少なくとも私の美的感覚はダサいという判断を下す。(これは使用する人への人格批判ではなく、言葉そのものへの批判である。)

 

 

②定義問題

昔から定義へのこだわりは並大抵ではない。なぜなら定義が全てだからだ。定義を疎かにした瞬間に言説の意義、意味は空洞化する。

(*ここでの意義や意味は言葉の響きや語感といったものとは異なるものである。)

では、この文章において問いたい定義は「人生」「楽しむ」「勝つ」の三つである。

 

「人生」とは何か?この言葉を発する人でこれについて深く考えた人はいるだろうか。これは偉大な哲学者の間でも統一した見解のない難問題である。まあ、哲学者がどう言っていようと、自分が自分なりに定義できていれば良いのだが。要は、ふわっと定義させたまま発すると文章がその重みに耐えきれずに陳腐化するということだ。

 

次に、「楽しむ」とは何か?「たのしむ」は「愉しむ」とも「娯しむ」とも書く。では、どういう意味で「たのしむ」と使っているのか。私の知る限り「#人生楽しんだもん勝ち」と共に現れる写真は大勢でうぇーい系が多い。別に大勢でうぇーいを批判しているわけではない。ただ、もう少し「たのしむ」の概念を拡張させてもいいのではないかという提案である。生きていく上で、「たのしい」ほど探究しがいのある感情は他にないだろうから。

 

最後に、「勝つ」とは何か?

シンプルに三つ聞きたい。「勝つってどういう意味で使ってるの?」「誰に勝つの?」「レフリーは誰なの?」

 

 

③言説の論理的妥当性(正当性)

定義が明確な前提として話そう。ここで指摘したいのは単純なポイントである。「人生」の「勝ち負け」をジャッジする上で、「楽しむ」という唯一の評価基準を設定したことの妥当性の有無だ。そして、妥当であったとすればそれをどう評価するのかだ。もちろん「人生楽しんだもん勝ち」という言葉をレトリックや人生哲学として使用しておるのだから、科学的フィールドからの言及はご法度かもしれない。ただ、声を大にして「人生楽しんだもん勝ち」と言い張り、少なくとも自分以外の人にも共感してもらいたいと思うのであれば科学的な検証(論理性への言及)は怠るべきではないと私は思う。

 

 

 ④表出の意図

これは、要するに自分の中で信条として持っておくことと、言葉として表出することの区別の観点である。もちろん、表現の自由がある国だ。基本的には何を言っても構わない。しかし、信条として持つだけと、言葉として表出することで何が違うのか、変わるのか、といった視点で自分の言動を客観的に振り返ることは大切な習慣だろう。少なくとも私は「人生楽しんだもん勝ち」を表出することの正当な意図(目的)は無い気がしている。

 

 

 ⑤動機の意図

これは、④とも被っているのだが、実際に人生を楽しんでいる人がわざわざ強迫観念的に「人生楽しんだもん勝ち」という少々圧力のある言葉を信条として持つことの意味(意図)である。「人生楽しんだもん勝ち」ということが目的になって純粋に楽しめてないのではないか?という疑問が湧くのは私があまのじゃくなのだろうか。また、楽しむと思う(発する)ことで自己フィードバック的に楽しんでいる状態を作り出しているのかもしれない。これは、精神分析的なアプローチではあるが、ジャックラカンも指摘しているようにそのやり方では「根源的疎外」から逃れることはできない。

 

 

以上、私が違和感を感じる理由を考えてみた。実はこの5つの観点はMECEになっている(趣旨には関係ないのでその説明は割愛するが)。

 

 

 

別に何かを特段主張したいわけでもない。ただただ「人生楽しんだもん勝ち」という言説に現代特有の閉塞感や空虚さを感じてしまうのである。流行的な言葉は個人の価値観の発露であり、それは社会的な形態と接続するだろうから。

 

 

 

こういった違和感と私の現象への分析衝動は相乗効果を生むのではないかと最近思っている次第である。表現や言葉への感覚が絶妙な方と繋がりたいと思う今日この頃だ。

 

 

 

寒くなれば、どーでもいいようなことをああだこうだ考えることくらいしかすることがない野間であった。