「自分探し」についてもう一回考えてみる
はい、こんにちわ。
今回、実質一回目の投稿になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。
ちなみに、ただいま絶賛テスト前です。単位よ降ってこいと天に祈る毎日です。(そんなことしてないで勉強しろ!)
ってことで、勉強の休憩もそんなにしてる余裕ないので、早速本題に入りましょう。
今回のテーマは「自分探し」です。
昨今、大学生の間で、自分探しというものが一大流行になってますね。
「ちょっくら自分探すために東南アジア一人でバックパッカーしてくるわ〜〜!」なんてのはよく聞くことですよね。
ちょっと立ち止まって冷静に考えてみましょう。
自分を探しに東南アジアに行くって言ってるけど東南アジアのどこかに自分というものがあってそれを探しにいくんでしょうか?
ベトナムの僻地などに自分というものが落ちているのかな?
もちろんそんなわけありません。
「みなみのことうにラティオス、ラティアスを捕まえにいくぞ!」みたいなノリで自分というものは見つかるもんではありません。
なぜなら、「自分探し」でいう「自分」というのは物理的対象ではなく、あえていうなら概念的対象だからです。
そもそも物理的対象としての「自分」は「自分探し」に出かける主体そのものです。
だから、「自分探し」というものを言葉通りに忠実に実行しようとするなら、
例えばインドのタージマハルの前で急に、自分を指差しながら「あ!自分発見!!」みたいな写真を撮ってインスタとかフェイスブックにあげて、「わろたww」等のコメントを獲得するのが関の山でしょう。
さておき、皆がいうところの概念的対象である「自分」について少し考えてみましょう。
自分ってなんなのでしょうか?
「私とは何か?」という自我に関する問題は哲学の根本命題の一つであり、私もこの議論は結構好きなのですがここではそういった不毛なめんどくさい議論はやめときましょう。
哲学的考察から一切切り離して「自分」というものを考えると私は「自分」=「人格」だと思っています。
よく「自分探し」を「自分のやりたいことを見つける」ことだと捉えている人もいますが、私はそうではないと思っています。
なぜなら、「自分のやりたいこと」っていうのは「what」という概念であり、固有性や単独性の意味を持つ「who」という概念よりは絶対的に下位概念だからです。
ドイツの政治哲学者ハンナアーレントも昨今の「自分探し」の欺瞞性をいち早く看破し、著作「人間の条件」の中でこう言ってます。
「ある人の正体というのは、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり、重要であると信じることは、人間的自負にとって欠くべからざる要素である。」
即ち、イチローから野球を取ったときに、孫正義からソフトバンクを取ったときに、ビルゲイツからお金を取ったときに(笑)残るものがここでいうアーレントのいう「正体」であり、「自分」即ち「人格」なのでしょう。
では、人格とはどのようにして形成されるのか。
これも非常に重要な問いでありながら、答えるのが難しい問いですね。
少なくとも、一ヶ月東南アジアに一人旅をしたり、一年間留学しただけで人格が形成されることはないでしょう。
他国で生活をしたり等自分の生活環境をガラッと変えることで、自分というものを相対化することはできると思いますが、それだけでは「人格」というものは形作られません。
では、人格とはなんなのか。もんもんとしてきましたね。
私が「人格」について考えていたときに、ある言葉に出逢い「人格」に関して考えることにブレイクスルーを起こしました。(人格そのもののブレイクスルーはまだ起こせてない(笑))
アリストテレスはこう言いました。
「人格は繰り返す行動の総計である。」
ストン。
喉に詰まってたものが取れて、溜飲が下がったと表現するのにふさわしい感情に至りました。
みなさんどうでしょうか?
繰り返す行動の総計ということは、人生全体において繰り返される行動全てということです。
即ち、朝起きてから寝るまで(寝ている間に見る夢も)に取る行動の約2万日の総計が「自分」=「人格」になるのです。
「大学生」=自分探しの時期みたいなそんなミクロなスケールではありません。大学生の間に自分がわかってしまうのはつまらないですよね。
よく尾崎豊の十五の夜的な「自分が何なのかわからない」という悩みを大学生の時期くらいに抱く人が多いですが、私的には至極まっとうな真理を言い当てていると思います。
「自分」というものは生まれてから死ぬまであらゆる人、言葉等に影響を受け続けます。
家でずっと寝て、一生過ごしたみたいな人以外は「自分」というのは変わり続けるということです。
前提が変化し続ける数学の問題が解けないように「自分がわからない」というのは正しいことだと思います。
少し脱線してなぜ大学生の間で「自分探し」ということが俎上にあげられるのかを考えてみましょう。
私は二つ理由があると思います。
一つは大学生くらいに、自我とかの形而上学的問いに対する認識能力が高まるから。
釈迦は生まれた時に天上天下唯我独尊と言ったと伝えられてますが、よほどの天才じゃない限り中学生以前に「自分とは何か」みたいな問いを立てる能力はないでしょう。
一般的には大学生くらいがちょうどその能力の形成時期だと思います。
二つ目は、時間。
単純です。圧倒的に暇だからです。
時間がありすぎて、「自分ってなんなんだろう」とかいういわゆるムダなことを考えてしまうのです。(私はこういうことをグルグル考える人は基本的に好きですが(笑))
グダグダと中身のないことを言ってしまいましたが、
私の一番言いたいことは
自分がわからないことは至極まっとうなことだということです。
大学生の間に、自分というものがわからなくてもいいんです。
自分というものは、社会人になり、結婚し、子供を産み、おじさんおばさんになり、一生かけて作っていくものです。
自己アイデンティティーの喪失は異常な出来事ではありません。
そもそも、誰も「自己アイデンティティー」なるものなど持っていないのです。
喪失以前にもともと所有していない。言うならば「自己アイデンティティー」は自分自身であり、自己と切り離して考えることはできません。
ほんとの意味で自己アイデンティティーを喪失したら自分自身まで消えちゃうことになります。(笑)
だから、自分を見つけようと焦る必要はない。自分が見つからなくてもいい。
というよりは全ての行動が自分になるということを意識することが大事だと思うのです。
これは慰めのようであり、戒めですよね。(笑)
自分とは何か。
「自分」とは友達に発した何気ない一言であり、好きになった人に対する態度であり、自分探しをしようと決意し東南アジアに行くこと(笑)なのです。
ではでは、自論をだらだら述べてしまい内容も稚拙ですが、勉強もしないといけないので、
この辺で「自分探し」に関する論考を終了しまーす。