私はホモ・ルーデンス

京都に住む大学生です。森羅万象について、自分の頭で考えたことをひたすら綴っています。論理と感情の狭間で生きてます。気軽に読んでみてください。

「裁量がある」って何?(その1)

昨年一年間、就活をする中で、

「大手よりもベンチャーの方が裁量を得られる」という言説を耳にすることが非常に多かった。そして、「確かにそうかも。」と思う一方で、何かしらの違和感が拭えなかった。

 

そうした問いを胸に抱えながら研究室で過ごしていたある日、初めて使う分析機器の使い方を博士課程に在学中の先輩に教えてもらうことがあった。彼は、懇切丁寧に扱い方を教えてくれ、わたしはそのお陰で新たなデータを取得し、リサーチを加速することができた。

 

その時、自分の中で衝撃が走ったのを鮮明に覚えている。

「この先輩は、 SEM(分析機器の名称である)を扱ったり、使い方を教える裁量があるんだ!!!」 

 

当たり前のことを言ってるかもしれないが、これはわたしの中で大きな気づきのきっかけとなるのだ。

 

①裁量には事象限定性があるわけではない

②裁量は手段である(目的措定が必要かつ自己完結性を意味しない)

③裁量は正当性により担保される 

 

このイベントを通して、わたしが裁量(を有すること)を構成すると考える3つの要素が同時多発的に舞い降りた。

これは後述するが、冒頭で挙げた「大手よりもベンチャーの方が裁量権を得られる」といった時の裁量が ”正しい裁量” を指摘できていないことの説明にもなると思う。

 

では、前置きが長くなったが「裁量とは何か」にまつわるお話を始めたい。

 

論点がいくつかありそうなので、何回かに記事を分けて書くことにする。

「対象の質的性質」、「対象の量的性質」、「目的」、「正当性」という要素と”裁量権というであろうイメージ”との関連性を探った上で、「大手よりもベンチャーの方が裁量を得られる」という言説を批判するスタイルを取りつつ、「裁量がある」という概念の真意をつかんでいく。

 

今回は対象の質的性質を取り上げることにする。

 

裁量があるとはそもそもどういうことか?

 

わたしは法学徒ではない。だから、ゴリゴリの論理で説明することはできないし、それはわたしの仕事ではない。あくまでざっくりと抽象的な意味、イメージを描写するにとどまる。

 

わたしが思う裁量(を有すること)の定義は以下のようにシンプルだ。

 

「対象Xを目的Yのために自らが扱う(判断する)正当性があること」だ。

 

即ち、裁量の根拠は、目的Yと対象Xを定める。目的に対して対象を自らが為すべき正当性を証明する。以上だ。

 

例えば、アンパンマンはお腹がすいて死にそうな人を救うために(目的)自らの顔をあげる(対象)裁量がある。バットマンゴッサムシティを救うために(目的)悪と戦う(対象)裁量がある。正当性とは何か?それをアンパンマンバットマンができるしやるべきだということである。アンパンマンは顔を複製できかつ、取り外してあげることができるし、バットマンはシンプルに強いから悪を退治できる。

 

ここで、少し対象Xについて考えてみる。あらゆる対象は以下のような図に表される質的性質を持つと考える。自由で制約が少ないものは曖昧でバクッとしており、制約がきついものはやることが明確だ。例えば、どういう人生を生きたいかといった非常に自由度の高い対象はその分曖昧になり、ドレスコードが厳しいパーティなどの服装は明確である。

 

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ここでわたしが言いたいことは、多くの人が使う「裁量」が左側に極端に偏っていることだ。まず初めに、裁量には別に対象限定性は無い。対象が何であれ、それを行う目的と自らがやる正当性があればよい。ここで一度「大手よりもベンチャーの方が裁量を得られる」という言説を振り返ってみよう。

 

ベンチャー企業は、まだあまり確定的なことが少なく自由に事業を考えたりできると思われているという印象である。(実際のところはそんなことはなく、超具体的な行動が多いと思うが)ここで語られていることはベンチャーではあまり制約が無く、曖昧な対象に取り組むことが多いが故に、裁量があるという奇妙なロジックである。何度も言うが、裁量には対象の限定性は無い。

 

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そしておそらく、そういう言説の裏には大手では以下のような対象に取り組むことが多く、それが故に裁量が少ないという観念がある。確かに、従業員数が多く、組織化されている大手では入社して何年かは、右下即ち、対象が明確なことを行うことが多いだろう。しかし、これは裁量の有無とは全く関係が無い。パイロットがやることはほとんど右下に入る。誰もパイロットに裁量が無いとは言うはずがない。

 

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裁量の有無は対象の質的性質から独立している。

 

裁量というものを対象(事象)の性質から切り離して、クリアに考えなければならないのだ。

なんの目的のために、どの対象に自らが取り組むべきなのか。コンセプトメイキングが得意なら自由度が高い領域を扱えばいいし、専門性が高いなら制約度が高い領域を扱えばいい。どちらもそれをすべき正当な根拠があるなら裁量があるのだ。

 

刻一刻と扱う対象は変化する。その時々に対象の性質を見抜き、目的に照らし合わせ、自らがそれを為すべき正当性を証明していく。大手とかベンチャーとか全く関係がなく、扱う対象は変化する。裁量とは流動的な生き物みたいなものであり、目の前に現れる現象と向き合い続ける中で、自らがそれを為すべき正当性を証明し続ける不断のプロセスだと思う。

 

時間もなく、半端な内容であることは自覚しつつここで筆を置く。

次回は対象の量的性質との関係性について書くことにする。

 

〜人生楽しんだもん勝ちという言説へのささやかな抵抗〜

〜人生楽しんだもん勝ちという言説へのささやかな抵抗〜

 

 

「人生楽しんだもん勝ち」というテーゼ。誰もが一度は目にしたことはあるのではないだろうか?

 

 

Facebookでは【人生楽しんだもん勝ち】というタイトルの長々しい文章が大勢でうぇーい的な写真を添えて綴られる。Instagramでは「#人生楽しんだもん勝ち」となって現れ、Twitterではプロフィール欄に登場する。

 

 

私は、「人生楽しんだもん勝ち」という一見キラキラした言説に並々ならぬ違和感を覚えるのである。

 

 

それは圧迫感的なものであり、同情心でもあり、虚しさでもある。

 

 

では、その違和感とはなんなのか?今回の記事の趣旨は単純だ。その違和感の正体を暴くことである。違和感を感じていないし、むしろその言葉や態度が好きだという人は何言ってんだこいつと読み流してくれて良い。もちろん建設的な批判は歓迎する。

 

 

早速だが、私はこの5つの観点から「人生楽しんだもん勝ち」という言説への批判を展開しつつ、その違和感の本質を浮き彫りにしていく。

 

①客体からの評価

②定義問題

③言説の論理的妥当性(正当性)

④表出の意図

⑤動機の意図

 

とは言っても、なんのことか分からないだろう。

 

一つずつ説明していこう。

 

①客体からの評価

これは、この言葉を見たり、聞いたりした受け手側がどう思うかということだ。

一言。ダサい。これは私がなぜ違和感を感じるのかの検証なので皆さんはどうかわからない。でも、少なくとも私の美的感覚はダサいという判断を下す。(これは使用する人への人格批判ではなく、言葉そのものへの批判である。)

 

 

②定義問題

昔から定義へのこだわりは並大抵ではない。なぜなら定義が全てだからだ。定義を疎かにした瞬間に言説の意義、意味は空洞化する。

(*ここでの意義や意味は言葉の響きや語感といったものとは異なるものである。)

では、この文章において問いたい定義は「人生」「楽しむ」「勝つ」の三つである。

 

「人生」とは何か?この言葉を発する人でこれについて深く考えた人はいるだろうか。これは偉大な哲学者の間でも統一した見解のない難問題である。まあ、哲学者がどう言っていようと、自分が自分なりに定義できていれば良いのだが。要は、ふわっと定義させたまま発すると文章がその重みに耐えきれずに陳腐化するということだ。

 

次に、「楽しむ」とは何か?「たのしむ」は「愉しむ」とも「娯しむ」とも書く。では、どういう意味で「たのしむ」と使っているのか。私の知る限り「#人生楽しんだもん勝ち」と共に現れる写真は大勢でうぇーい系が多い。別に大勢でうぇーいを批判しているわけではない。ただ、もう少し「たのしむ」の概念を拡張させてもいいのではないかという提案である。生きていく上で、「たのしい」ほど探究しがいのある感情は他にないだろうから。

 

最後に、「勝つ」とは何か?

シンプルに三つ聞きたい。「勝つってどういう意味で使ってるの?」「誰に勝つの?」「レフリーは誰なの?」

 

 

③言説の論理的妥当性(正当性)

定義が明確な前提として話そう。ここで指摘したいのは単純なポイントである。「人生」の「勝ち負け」をジャッジする上で、「楽しむ」という唯一の評価基準を設定したことの妥当性の有無だ。そして、妥当であったとすればそれをどう評価するのかだ。もちろん「人生楽しんだもん勝ち」という言葉をレトリックや人生哲学として使用しておるのだから、科学的フィールドからの言及はご法度かもしれない。ただ、声を大にして「人生楽しんだもん勝ち」と言い張り、少なくとも自分以外の人にも共感してもらいたいと思うのであれば科学的な検証(論理性への言及)は怠るべきではないと私は思う。

 

 

 ④表出の意図

これは、要するに自分の中で信条として持っておくことと、言葉として表出することの区別の観点である。もちろん、表現の自由がある国だ。基本的には何を言っても構わない。しかし、信条として持つだけと、言葉として表出することで何が違うのか、変わるのか、といった視点で自分の言動を客観的に振り返ることは大切な習慣だろう。少なくとも私は「人生楽しんだもん勝ち」を表出することの正当な意図(目的)は無い気がしている。

 

 

 ⑤動機の意図

これは、④とも被っているのだが、実際に人生を楽しんでいる人がわざわざ強迫観念的に「人生楽しんだもん勝ち」という少々圧力のある言葉を信条として持つことの意味(意図)である。「人生楽しんだもん勝ち」ということが目的になって純粋に楽しめてないのではないか?という疑問が湧くのは私があまのじゃくなのだろうか。また、楽しむと思う(発する)ことで自己フィードバック的に楽しんでいる状態を作り出しているのかもしれない。これは、精神分析的なアプローチではあるが、ジャックラカンも指摘しているようにそのやり方では「根源的疎外」から逃れることはできない。

 

 

以上、私が違和感を感じる理由を考えてみた。実はこの5つの観点はMECEになっている(趣旨には関係ないのでその説明は割愛するが)。

 

 

 

別に何かを特段主張したいわけでもない。ただただ「人生楽しんだもん勝ち」という言説に現代特有の閉塞感や空虚さを感じてしまうのである。流行的な言葉は個人の価値観の発露であり、それは社会的な形態と接続するだろうから。

 

 

 

こういった違和感と私の現象への分析衝動は相乗効果を生むのではないかと最近思っている次第である。表現や言葉への感覚が絶妙な方と繋がりたいと思う今日この頃だ。

 

 

 

寒くなれば、どーでもいいようなことをああだこうだ考えることくらいしかすることがない野間であった。

 

 

 

 

「自分探し」についてもう一回考えてみる

はい、こんにちわ。

今回、実質一回目の投稿になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

ちなみに、ただいま絶賛テスト前です。単位よ降ってこいと天に祈る毎日です。(そんなことしてないで勉強しろ!)

 

ってことで、勉強の休憩もそんなにしてる余裕ないので、早速本題に入りましょう。

 

今回のテーマは「自分探し」です。

昨今、大学生の間で、自分探しというものが一大流行になってますね。

「ちょっくら自分探すために東南アジア一人でバックパッカーしてくるわ〜〜!」なんてのはよく聞くことですよね。

 

ちょっと立ち止まって冷静に考えてみましょう。

自分を探しに東南アジアに行くって言ってるけど東南アジアのどこかに自分というものがあってそれを探しにいくんでしょうか?

ベトナムの僻地などに自分というものが落ちているのかな?

 

もちろんそんなわけありません。

「みなみのことうにラティオスラティアスを捕まえにいくぞ!」みたいなノリで自分というものは見つかるもんではありません。

 

なぜなら、「自分探し」でいう「自分」というのは物理的対象ではなく、あえていうなら概念的対象だからです。

そもそも物理的対象としての「自分」は「自分探し」に出かける主体そのものです。

だから、「自分探し」というものを言葉通りに忠実に実行しようとするなら、

例えばインドのタージマハルの前で急に、自分を指差しながら「あ!自分発見!!」みたいな写真を撮ってインスタとかフェイスブックにあげて、「わろたww」等のコメントを獲得するのが関の山でしょう。

 

さておき、皆がいうところの概念的対象である「自分」について少し考えてみましょう。

自分ってなんなのでしょうか?

「私とは何か?」という自我に関する問題は哲学の根本命題の一つであり、私もこの議論は結構好きなのですがここではそういった不毛なめんどくさい議論はやめときましょう。

 

哲学的考察から一切切り離して「自分」というものを考えると私は「自分」=「人格」だと思っています。

よく「自分探し」を「自分のやりたいことを見つける」ことだと捉えている人もいますが、私はそうではないと思っています。

なぜなら、「自分のやりたいこと」っていうのは「what」という概念であり、固有性や単独性の意味を持つ「who」という概念よりは絶対的に下位概念だからです。

 

ドイツの政治哲学者ハンナアーレントも昨今の「自分探し」の欺瞞性をいち早く看破し、著作「人間の条件」の中でこう言ってます。

 

ある人の正体というのは、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり、重要であると信じることは、人間的自負にとって欠くべからざる要素である。」

 

即ち、イチローから野球を取ったときに、孫正義からソフトバンクを取ったときに、ビルゲイツからお金を取ったときに(笑)残るものがここでいうアーレントのいう「正体」であり、「自分」即ち「人格」なのでしょう。

 

では、人格とはどのようにして形成されるのか。

これも非常に重要な問いでありながら、答えるのが難しい問いですね。

少なくとも、一ヶ月東南アジアに一人旅をしたり、一年間留学しただけで人格が形成されることはないでしょう。

他国で生活をしたり等自分の生活環境をガラッと変えることで、自分というものを相対化することはできると思いますが、それだけでは「人格」というものは形作られません。

 

では、人格とはなんなのか。もんもんとしてきましたね。

私が「人格」について考えていたときに、ある言葉に出逢い「人格」に関して考えることにブレイクスルーを起こしました。(人格そのもののブレイクスルーはまだ起こせてない(笑))

 

アリストテレスはこう言いました。

 

人格は繰り返す行動の総計である。」

 

ストン。

 

喉に詰まってたものが取れて、溜飲が下がったと表現するのにふさわしい感情に至りました。

みなさんどうでしょうか?

私はこの言葉を聞いて思わずはああああああああああああと言ってしまいました。(笑)

 

繰り返す行動の総計ということは、人生全体において繰り返される行動全てということです。

即ち、朝起きてから寝るまで(寝ている間に見る夢も)に取る行動の約2万日の総計が「自分」=「人格」になるのです。

「大学生」=自分探しの時期みたいなそんなミクロなスケールではありません。大学生の間に自分がわかってしまうのはつまらないですよね。

 

よく尾崎豊の十五の夜的な「自分が何なのかわからない」という悩みを大学生の時期くらいに抱く人が多いですが、私的には至極まっとうな真理を言い当てていると思います。

「自分」というものは生まれてから死ぬまであらゆる人、言葉等に影響を受け続けます。

家でずっと寝て、一生過ごしたみたいな人以外は「自分」というのは変わり続けるということです。

前提が変化し続ける数学の問題が解けないように「自分がわからない」というのは正しいことだと思います。

 

少し脱線してなぜ大学生の間で「自分探し」ということが俎上にあげられるのかを考えてみましょう。

私は二つ理由があると思います。

一つは大学生くらいに、自我とかの形而上学的問いに対する認識能力が高まるから。

釈迦は生まれた時に天上天下唯我独尊と言ったと伝えられてますが、よほどの天才じゃない限り中学生以前に「自分とは何か」みたいな問いを立てる能力はないでしょう。

一般的には大学生くらいがちょうどその能力の形成時期だと思います。

二つ目は、時間。

単純です。圧倒的に暇だからです。

時間がありすぎて、「自分ってなんなんだろう」とかいういわゆるムダなことを考えてしまうのです。(私はこういうことをグルグル考える人は基本的に好きですが(笑))

 

 

グダグダと中身のないことを言ってしまいましたが、

私の一番言いたいことは

自分がわからないことは至極まっとうなことだということです。

大学生の間に、自分というものがわからなくてもいいんです。

自分というものは、社会人になり、結婚し、子供を産み、おじさんおばさんになり、一生かけて作っていくものです。

 

自己アイデンティティーの喪失は異常な出来事ではありません。

そもそも、誰も「自己アイデンティティー」なるものなど持っていないのです。

喪失以前にもともと所有していない。言うならば「自己アイデンティティー」は自分自身であり、自己と切り離して考えることはできません。

ほんとの意味で自己アイデンティティーを喪失したら自分自身まで消えちゃうことになります。(笑)

 

だから、自分を見つけようと焦る必要はない。自分が見つからなくてもいい。

というよりは全ての行動が自分になるということを意識することが大事だと思うのです。

これは慰めのようであり、戒めですよね。(笑)

 

 

自分とは何か。

「自分」とは友達に発した何気ない一言であり、好きになった人に対する態度であり、自分探しをしようと決意し東南アジアに行くこと(笑)なのです。

 

 

ではでは、自論をだらだら述べてしまい内容も稚拙ですが、勉強もしないといけないので、

この辺で「自分探し」に関する論考を終了しまーす。

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログ始めました!

突然ですが、わたくし「私はホモ・ルーデンス」はブログを始めます。

 

書く内容は基本的にヴァラエティーに富んだトピックを扱おうと思っています。

 

ポイントは徹底的に自分の頭で考えることにあります。

 

なので、学術的妥当性は担保できません。

 

あくまで仮説です。

 

が、しかし、思考のコペルニクス的転回は徹底的に磨かれた仮説からしか生まれないと思っています。

 

更新頻度は時期によってまちまちになりますが、恐らく隔週一回程度になると思います。

 

よろしくお願いします!